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全日本一般缶工業団体連合会

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4.第一次世界大戦による需要の増大と近代化

 1914年にオーストリア皇太子がセルビアの一青年に暗殺されたことをきっかけに、第一次世界大戦が勃発した。1918年、イギリス・フランスなどの連合国側の勝利に終わったが日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦し、青島を占領するなど中国における権益の拡大に努めた。ヨーロッパ列強のアジア市場への支配力が衰えたのに乗じて、日本の産業界はアジア市場への進出で大きな利益を得た(1)。一般缶製造業も、内外需要の増加で発展を遂げた。

 1914(大正3)年1月、鎌田栄助(有)鎌田製罐工場〔埼玉県草加市〕の創業者)が鳥越(現台東区)にて独立、茶缶の製造販売を開始した。鎌田栄助は、すでに1905(明治38)年1月、千葉県の勝浦より上京、開元堂梓司市郎に師事、茶缶の製造販売を習っていた。また、1915(大正4)年4月、井上製缶工場(現在の井上製缶(株)[墨田区本所])が創業した。この工場では、輸出用化粧缶のほか、各種の缶を製造した。1916(大正5)年には缶詰ならびに製缶を主体にした旭食品(株)(現在のオート製缶(株)[荒川区南千住])が、本所区竪川に創業した。同年4月、竪川に東洋食品(株)(現在の東邦金属工業[江戸川区松島])も創業した(2)。東洋食品、缶詰および各種ブリキ缶の製造販売をおこなった(3)現在の側島製缶(株)(愛知県海部郡大治町)も、大正初期にブリキ缶〔薬、油缶等〕の製造をおこなった。 すでに1906(明治39)年、養蚕具の製造販売業を創業しており、その後養蚕用種付け機具(蝦輪〔特許〕)の製作(ブリキ板を使用)を経て、ブリキ缶の製造に至った(4)。大正初期には、渡辺九一(東亜製缶(株)[埼玉県草加市]の創業者)が山梨県より上京、神田区の杉浦製缶所(1908〔明治41〕年神田区〔現千代田区〕に移転)に勤務した(5)

 大正初期は、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発し、大戦景気に潤う恵まれた時代であった。松本猪太郎は、製缶事業が充実していく中、営業と生産の分業化、専門化を進めていった。金方堂松本ぶりき製缶所を営業セクトに専門化し、その下に生産専門の協力工場を結集し、資材から生産・販売に至る協力体制を確立していった。 当時の製缶業の生産形態はほとんどが手作業で、工場の機械設備も切断機、プレス機、打ち出し機、ローラー、背上げ機などのささやかなものであった。機械操作は職人の手と足に頼らなければならずしかもかなりの熟練を要した。一人前の職人になるには最低5年の徒弟奉公をしなければならず、熟練した職人でも1日(8時間労働として換算)200缶の製造を超えることはなかった。 近代的な経営理念に乏しい当時の職人気質の経営者の中にあって、松本猪太郎の事業計画は画期的なものであった。また松本猪太郎は、生産専門の協力工場に対して原料ブリキの安定供給をおこなった。1901(明治34)年八幡製鉄所が操業していたが、ブリキの国内製造はまだおこなわれておらず、イギリスなどからの輸入に頼っていた。 小規模な製缶業者には、資金的な余裕がなく、原料手当てが思うにまかせないという事情があった。製品の品質向上とコストダウンを目標に、缶の規格を10種類ほどにしぼり、輸入ブリキを品質によって等級分けし、切断機で切断して協力工場に渡した。当時のブリキは、薄鋼板を溶融錫液の中に漬けるドブ漬けメッキがおこなわれ、品質にバラつきが多かった。美しさを要求される菓子缶、海苔缶は、原料品質のバラつきが大きなネックになった。 価格の高い缶には上等のブリキ、安い缶には悪いブリキというふうに目的に応じて使い分けられた。協力工場から納品された缶は、表面に塗りまたはいぶしの最終仕上げがおこなわれて出荷された。ブリキ板の切断による落とし板(肩)を活用して、パン箱と呼ばれる簡単なブリキ箱も作った。これは、地方のみやげもの商に販売されたが、このような工夫も製品のコストダウンに役立った(6)(7)

 第一次世界大戦を契機に、ブリキ印刷の需要が増大し、金属印刷業も著しい発展を遂げた。ドイツやオランダからの中国向けブリキ印刷物の輸出がと絶え、わが国にその需要が集中した。 小島工場では、双面盒や磚茶缶などの中国向け輸出をおこなった。これには、1915(大正4)年小島長蔵が上海の印刷業の視察に赴いた際、日本の貿易会社永井洋行と代理店契約を結び、ブリキ製品を輸出した経緯がある。 双面盒は、中国人愛用の石けん箱に似た小物入れで、磚茶缶は、石けん箱ぐらいの大きさのロシア人の飲む茶の入れ物である。磚茶缶の注文王は、漢□のロシア人茶商であった。小島工場では、月に双面盒10万個、磚茶缶70万個の注文を受け、明光堂、鈴木工場、東京ブリキ印刷製缶(株)などの同業者にも受注量を配分した。 小島工場の中国向け製缶は、主として下請の梅田長次郎の工場で製造した(8)(9)。  国産のブリキ印刷機も優秀なものが出現し、ブリキ印刷技術が急速な進歩をみせた。 1916(大正5)年、小島工場は中村鉄工所(創業1885〔明治18〕年、東京本所区、1912〔明治45〕年には金属印刷機械2枚掛、4枚掛の2種ならびにハンドがすでに完成)製造の2枚掛ブリキ印刷機(平台)1台を増設した。 これが、小島工場におけるブリキ印刷機の国産第1号であった。国産の平台印刷機の出現は、金属印刷が玩具対象から菓子缶・薬缶・看板・王冠などに需要が増大したという背景があった。国産2枚掛のブリキ印刷機は、毎分26~27枚を通す高性能(1902〔明治35〕年増設のドイツ製第2号機〔 2枚掛〕は20枚)を発揮した。 当時、材料のブリキ板はほとんどイギリスから輸入したが、14×20インチのものを2枚掛、この倍判の28×20インチのものを4枚掛と呼んだ。ブリキは、アメリカからも輸入されたが、イギリスからのものが品質が良かった。 当時のブリキは、20×14インチ大のもので1箱112枚入りが普通であった。その重量は110ポンド(L)内外で、熱間圧延のためかなり厚手のものが標準だった。厚もののブリキ(120 Lくらい)は丸盆・角盆・看板などに、薄もの(110Lくらい)は玩具・薬缶・菓子缶・缶詰缶・化粧缶・煙草缶などに使用された(10)(11)(12)。  第一次世界大戦を契機に、近代的な製缶業の企業化が進んだ(13)。1913(大正2)年、堤商会(1906〔明治39〕年創業、新潟市)がカムチャッカの自社のサケ缶詰工場にアメリカンキャン社(A.C.C.)の自動製缶機と自動巻締機を導入、翌1914(大正3)年函館に製缶工場を建設、製缶機をここに移して翌1915(大正4)年から空缶製造を開始した。 翌1916(大正5)年、自社分のほか一般にも空缶を販売し、製缶分業の契機をつくった(14)(15)。 わが国初の近代的な製缶企業は、1917(大正6)年大阪市北区に設立された東洋製罐(株)(資本金50万円)である。 高崎達之肋が、製缶と缶詰製造の分離が缶詰事業の発展のために必要であることを説き、北洋漁業の輸出食品会社に関係して缶詰事業に理解のあった小野金六、当時の箕面有馬電鉄(株)の専務取締役・小林一三などの賛同を得て、A.C.C.自動製缶機1ラインで1919(大正8)年から製缶事業を開始した。1917(大正6)年6月25日の創立総会で、小野金六は取締役会長に、小林一三は取締役に、高崎達之肋は支配人に就任した。 アメリカの自動製缶機械は、ボディーメーカーおよびエレベーターが1918(大正7)年6月、シーマーおよびカーリングマシンが同年8月、その他の部品が翌1919(大正8)年2月に到着した。同年3月20日自動製缶機械の試運転を開始、引き続きタケノコ用3ポンド2号缶の空缶の製造、4月15日に型換えをしてグリンピース用1ポンド1号缶の空缶の製造をおこなった。当時のインバーテッド・ボディーメーカーは、1分間に120缶程度の製造能力であった。 自動製缶機械の据え付けが遅れた間、自社製の簡単な機械を用いて空缶を製造した。古ブリキや18リットルの古缶を再生して阪神・北陸地方の製油業者に販売したり、ペイント業者と提携して薄鉄板やブリキ板でペイント缶を製造したり、陸軍糧秣廠の注文を受けてシベリア出征の軍隊に供給する乾燥野菜・甘味品・塩乾魚などの容器を納入した(16)。  

 第一次世界大戦の終結により、ヨーロッパ諸国が生産力を回復し、大陸方面の需要が減退したが、一般缶製造業などは戦後の不況期においても国内需要の伸びにより、しばらく発展を続けた(17)(18)(19)

 1919(大正8)年、大野製缶(1945〔昭和20〕年廃業)が現在の(株)久保田製缶(1936〔昭和11〕年創業、台東区東上野)社長・久保田榮一の伯父によって、現在の墨田区向島の地に創業された。久保田榮一の父は、漆蒔絵の蒔絵師で、その蒔絵の技術を生かして大野製缶の創業と同時に勤務した(20)。また、1921(大正10)年11月、高橋忠蔵が下請を辞して独立、江東堂を開業し市内の茶小売店に販路を開拓した(21)。水戸部源四郎が伯父水戸部伴寿の世話で製缶業界に身を投じる決意を固めたのも、1921(大正10)年4月であった。 水戸部源四郎(1934〔昭和9 〕年10月水戸部家に養子縁組入籍)が、栃木県の赤麻村から18歳で上京し、伯父の製缶所に入った頃、製缶事業は順調であった。この製缶所では、森永製菓に納める菓子缶の製造が大半を占め、職人は常時40人位いたといわれる。当時の設備としては、切断機、プレス機、蹴とばし機、動力プレス、ローラー、巻締め機などがあったが、自動化されておらず、ほとんど手作業のためかなりの熟練を要した(22)

 第一次大戦後の不況期にも、金属印刷業は大戦中からの国内需要の伸びによって好調であった。 特に、小島印刷の業績にはみるべきものがあった。1918(大正7)年小島長蔵が印刷事業視察のため渡米、帰国後の同年12月個人経営の小島工場は小島印刷(株)(資本金100万円、社長・小島長蔵)と株式組織に改組された。 そして、1919(大正8)年11月大崎紙器工場、1920(大正9)年5月大日本製菓(株)(大阪市西成区)の工場、1920(大正9)年12月東洋硬化漆工(株)(東京市南葛飾都大島町)の工場を買収した。大阪工場の開設は、小島印刷が関西地方に進出して新しい販路を開拓する契機になった。大島工場は、金属印刷とその製品の専門工場として出発したものであるが、ブリキ印刷、製缶、チューブ製管および印刷、製版部製缶ならびに製管加工に必要な各種金型を製造修理する機械工作部門などを備えた近代的な工場であった。この工場は、印刷押出チューブをわが国で初めて製造したことで注目される。大崎工場や大阪工場では、紙印刷や紙器の製造がおこなわれた。これらの工場設備の増設は、小島印刷の業績が好調であったことを示している。 1919(大正8)年(第1期)には売上高98万5,000円、純利益7万4,000円、1920(大正9)年(第2期)には売上高109万円、純利益9万4,000円を計上、配当率も1割5分を堅持した。1919(大正8)年の従業員数は職員20人、工場従業員106人(うち女子24人)その他3人の計129人を数えた。 印刷押出チューブの製造は、ライオン歯磨からの依頼であった。1920(大正9)年、アメリカの代表的印刷機械メーカーのフックス・アンド・ラング社から製管・印刷に必要な機械一式が届けられ、大島工場に設置して製造された。 当時伊東胡蝶園の化粧品「御園の蕾」の缶、福井商会「健康」の丸缶、津村順天堂の「中将湯」の缶、都南荘「オゾ」の缶ならびに看板、わかもと本舗の「わかもと」看板や容器、「カルピス」の看板、野田醤油のガロン缶など需要が多かった。しかし、大正10年代にはいると小島印刷では中国方面での仕事を削減していく方針をとった。 すでに1916(大正5)年前後、小島工場は上海にブリキ製缶工場を仮設し、そこへ板材を送って現地製缶する方法をとっていたが、中国人経営による製缶業も発展し採算にあわなくなったことから、1922(大正11)年に上海工場を閉鎖した(23)。 1922(大正11)年頃、上海では製缶業が発達し、玩具や缶詰、菓子、茶、石けん、化粧品、煙草などの缶の金属印刷が盛んで、印刷製缶業者は中国人経営15工場、欧米人経営12工場、日本人経営3工場を数えた(24)

 この時期には、化学工業の発達により、印刷インキ用顔料の国産化が進んだ。第一次世界大戦前には、色インキの顔料はすべてドイツから輸入していたが、大戦による欠乏の時代を経て、1919(大正8)年川村インキが金赤顔料、1920(大正9)年東京顔料がレーキ顔料、アゾ系赤を作り出すなど、国産の顔料が供給されるようになった(25)。 1919(大正8)年、富安商店が開業したが、大阪ではこの当時ブリキ問屋が新品を扱う新町グループと屑ブリキを扱う難波グループに分かれていた。その他、ブリキの海難品や印刷板を苛性ソーダや硫酸などで洗って乾燥し、無地板として販売する店もあった。その後、ブリキ問屋は各グループから分離独立していったが、現在残っている問屋は難波グループ系が圧倒的に多い。当時、ブリキは大八車や馬力、リヤカーなどで配達された。梱包は、新品のほとんどが112枚の木箱入りで、容器、玩具、下駄の裏金、傘の止め金、餅焼き網、鉄道貨車の扉の封印などの用途に応じてバラ売りされた。当時の大阪地区のブリキ需要は、月間1,000トン程度だったようである。 当時の問屋の店員の月給は、住み込みで5円程、遠く北海道から台湾、朝鮮半島にまで売り歩いたといわれる(26)

 すでに1914(大正3)年、函館市台町に建設されていた堤商会の製缶工場は、製缶事業の専門企業化の契機となったが、1920(大正9)年5月25日の火災により焼失した。一方、輸出食品(株)(1912〔明治45〕年設立)と日魯漁業(株)(1914〔大正3〕年設立)も製缶事業に乗り出し、1918(大正7)年前者は亀田に、後者は七重浜に工場を設立したが、1919(大正8)年堤商会と輸出食品(株)の合併に伴い、上記2工場は東洋製罐(株)の函館工場となった。 東洋製罐(株)は、大阪を基点とし、北方進出を完遂しようとしていたが、1921(大正10)年輸出食品(株)、日魯漁業(株)(旧日魯)、勘察加漁業(株)(1920〔大正9 〕年設立)の3社が合併して日魯漁業(株)(新日魯)が発足し、同年10月23日小樽に新日魯出資による北海製缶倉庫(株)(資本金100万円)が設立されたため、北洋の製缶事業から手を引くことになった。北海製缶倉庫(株)は、A.C.C.製缶機3 ラインのほか、函館工場の1ラインを移設し、1922(大正11)年には50万缶の製造をおこなった(27)(28)。以上のような理由で、東洋製罐(株)は北海道での製缶事業を北海製缶倉庫(株)に譲り、青森県以南の事業を拡大していくことになった。 東京および広島方面の缶詰業者などから、それぞれの地区に製缶工場建設の要望が出たため、1920(大正9)年7月東京工場(東京府下荏原郡品川町)を建設、1921(大正10)年10月地元資本との折半により広島製罐(株)(資本金50万円)を設立した(創業開始は1923〔大正12〕年)(29)。東京工場では、平台機による印刷がおこなわれ、薬品缶、ペイント缶、菓子缶、煙草缶などが製造された(30)。また、パイナップル缶詰の空缶製造を目的に台湾へも進出し、1922(大正11)年8月台湾製罐(株)を設立して高雄州三塊暦に工場を建設した。さらに、1923(大正12)年3月、名古屋に名古屋製罐倉庫(株)を設立した(31)。  この時期に、ブリキの国産化がおこなわれた。1921(大正10)年、当時の川崎造船所で、日本で最初のブリキが製造された。しかし、実用化されるには至らず、その後1922(大正11)年八幡製鉄所が試作に成功し、翌年製品として売り出した(32)



(注)
(1)前掲3-(1)

(2)前掲3-(3)

(3)一般缶連合会ニュース NO.52 1991

(4)一般缶連合会ニュース NO.36 1987

(5)前掲3-(3)

(6)前掲3-(5)

(7)前掲3-(3)および聞き取りによる。

(8)前掲3-(8)

(9)前掲3-(9)

(10)前掲3-(8)

(11)前掲3-(9)

(12)富安株式会社:『賦力のあゆみ(関西編)』富安株式会社 1991

(13)前掲2-(7)

(14) 前掲1-(2)

(15) 加藤琢治監修・岡本信男編:『日魯漁業経営史 第1巻』水産社 1971

(16) 東洋製罐株式会社:『東洋製罐50年の歩み』東洋製罐株式会社 1967

(17) 前掲3-(1)

(18) 前掲3-(8)

(19) 前掲3-(9)

(20) 前掲3-(3)および聞き取りによる。

(21) 前掲3-(3)

(22) 前掲3-(21)

(23) 前掲3-(8)

(24) 前掲3-(9)

(25) 前掲3-(9)

(26) 前掲(12)

(27) 前掲(15)

(28) 岡本信男:『近代漁業発達史』水産社 1965

(29) 前掲(16)

(30) 前掲3-(9)

(31) 前掲(16)

(32) 前掲(16)