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全日本一般缶工業団体連合会

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9.朝鮮戦争による特需と生産の回復

中華人民共和国の成立により、南北朝鮮の対立が激化し、1950年6月北緯38度線をめぐって朝鮮戦争が起こった。この戦争で、不況に落ち込んでいた日本経済は息を吹き返した。
アメリカ軍の特需により国内生産が活発になり、繊維・金属を中心に鉱工業生産は1950年代初めには戦前の水準に回復した。一般缶製造業も、この戦争特需で潤った(1)
 朝鮮戦争による特需景気で、金方堂松本工業(株)は、1951(昭和26)年3月期には売り上げを初めて1億円の大台に乗せた。資本金も150万円になり、従業員は70人に増加した。
そして、1954(昭和29)年3月期には売り上げで2億円の大台を突破、資本金は450万円になり、従業員は110人に増加した(2)

原材料関係の統制も解け始めた1951(昭和26)年、水戸部製缶所では材料を手当てすることを条件に、森永製菓(株)より紅茶用角缶、その他菓子缶の大量注文が寄せられた。そして、1952(昭和27)年自動製胴機を購入し、チャコール箔による密封缶新技術を開発した。
当時ココア缶は、かぶせ蓋のみで封じていたが、夏場になると中身の粉乳や砂糖のせいで虫がわくのが悩みの種であった。森永製菓(株)から相談をもちかけられた水戸部源四郎は、極薄ブリキのチャコール箔に着眼し、密封缶を開発した。この密封缶は、蓋部の三角形の切り込みを利用した開封システムとともに好評をもって迎えられ、実用新案特許を申請後、ココア缶・海苔缶などの食料品缶に広く利用された。
そして、1953(昭和28)年7月には、森永製菓(株)のココア・コーヒー・紅茶缶の製造を目的に、静岡県三島市二日町に三島工場を建設した。
また、1954(昭和29)年1月には、それまでの(合)水戸部製缶所から株式会社に組織変更し、水戸部製缶(株)(資本金250万円)を設立した。水戸部源四郎は、代表取締役社長に就任した。同年、横浜市鶴見区に鶴見工場を新設し、ビスケット・クラッカー時代に則応したパッケージなどの紙器部門の製造も開始した(3)

小島プレス工業(株)は、シャウプ勧告により制定された資産再評価法によって資産再評価と新株の無償交付をおこない、1950(昭和25)年には資本金1,500万円、1953(昭和28)年には資本金6,000万円になった。そして、1954(昭和29)年大阪市西成区に大阪工場を再開して、製缶およびチューブ製管印刷の生産を開始、それと同時にアルミ・チューブの製造に着手した(4)

関東では、この時期に会社組織の変更や社名変更、創業が多くみられた。1950(昭和25)年2月には東洋食品(株)が創業地において東都金属工業(株)として再興、同年3月には弥生工業(株)(中央区京橋)が西銀座で創業、同年6月には大日製罐(株)が本社工場を小豆沢に設置して製缶業を再開、同年12月には辻製缶所が辻製缶(株)(資本金19万800円)を設立した。
同年には、東洋食品(株)が東邦金属工業(株)(社長戸川俊郎)として再発足、また(合)松村製罐所も設立された。
1951(昭和26)年1月には(株)関製缶所が設立、同年同月には辻製缶所がツジ製缶(有)(墨田区本所)を設立、同年2月には広浜製作所が広浜金属工業(株)(資本金50万円)を設立、同年3月には中川商会が中川製缶(株)を設立、同年4月には保坂製缶(株)(江戸川区平井、創業1947〔昭和22〕年)が設立された。
同年3月、井上製缶(株)は、日本専売公社よりたばこピース50本入缶製作の指定を受けた。また、同年12月弥生工業(株)が、川崎市に18リットル缶、食缶の工場を建設した。
1952(昭和27)年3月には、松本製缶(株)が缶の販売業として設立された。それ以前には、日用品の雑貨商を営んでいた。また、同年10月現在の進和製缶(株)(神奈川県厚木市)が、足立区宮城町に弥生工業(株)の小台工場として創業した。1953(昭和28)年には辻製缶(株)が足立区小台に工場(300坪)を増設、また同年南博之((株)ミナミ〔埼玉県草加市〕の創業者)が田岡製缶(株)に入社した。
1954(昭和29)年5月には(有)鎌田製罐工場が設立、同年8月には齋藤製罐(株)(横浜市鶴見区)が設立、同年9月には加藤製缶(株)が設立、同年10月には進和製缶(株)(初代社長原田進八)が設立された。同年1月には弥生工業(株)が目黒区に一般缶の工場を建設、また同年には寺島製缶工業(株)が工場を現在地の葛飾区立石へ移転、最上製罐(株)も同年に創業した(5)(6)(7)(8)

静岡では、1950(昭和25)年佐野製缶(株)が現在名に改称され、農林省・通産省の指定工場となった。そして、翌年18リットル缶の製造に着手した(9)

大阪では、1950(昭和25)年4月、藤井容器工業(株)が18リットル缶の製造を開始した。この企業は、すでに1933(昭和8)年藤井素平次が藤井商店として18リットル缶の問屋業を始めたものであるが、1940(昭和15)年5月日本空缶統制会社に企業合同、1946(昭和21)年3月大阪市東成区に藤井商店を再設立、1948(昭和23)年9月藤井容器工業(株)に改組された(10)
1951(昭和26)年には、三国金属工業(株)が全自動ブリキ印刷輪転機を設置し、またブリキ製容器の製造を本格的に開始した(11)
1952(昭和27)年5月には、現在の(株)ライトハウス金属工場(大阪市鶴見区)が、社会福祉法人日本ライトハウスとして創業した(12)
1953(昭和28)年5月には明和金属工業(株)(取締役社長渋谷豊三、高石市)が創業(13)、また同年平和製缶(株)が株式会社として再発足(14)、清水金属工業所も同年大阪製缶(株)に改組された(15)
三国金属工業(株)は、同年18リットル缶の製造ラインを導入、これによりブリキ印刷加工から一般缶、18リットル缶と総合容器メーカーとしての基礎が出来上がった(16)
大阪コルク工業(株)は、食缶の将来性に着目し、1950(昭和25)年4月大阪工場(森之宮)において、自動製缶機による食缶の製造を開始した。そして、1953(昭和28)年2月、社名を大和製罐株式会社(資本金8,000万円)に改めた。

愛知では、側島製缶(株)が、1952(昭和27)年頃よりアメリカから輸入した製鉄会社のスクラップを使って、各種生地缶を製造した(17)
朝鮮戦争による特需景気で、ブリキの需要も急速に増加した。当時の大阪では、富安商店が指定問屋として主導権をもち、価格をはじめ市場は同社を中心に動いた。当時、日本で生産するブリキはホット・ディップで、八幡製鉄と東洋鋼鈑のほか大阪ブリキメッキ、太洋鋼業などの市中メッキでまかなわれた。稼働基数は、八幡製鉄11基、東洋鋼鈑7基であった(18)
1952(昭和27)年頃には、都内で27~28のブリキ印刷専門業者があったといわれる。ブリキ印刷の需要は薬品缶、玩具、菓子缶、油缶、食品調味料缶、ドロップ缶、ミルク缶、酒・ビール・サイダーの口金、靴墨缶、化粧品缶、茶缶、文具、目盛板など広範囲にわたり、輸出では醤油缶などがあった。大部分の業者では、これらのものが製缶業者からまわされてきて印刷した。東洋製罐(株)の下請けをしている業者もあった(19)
東洋製罐(株)は、1950(昭和25)年9月締切決算(9か月決算)で、早くも復配を実現した。この時の設備機械台数は、自動製缶機械11ライン(年間製造能力604万函)、オーバル缶機械9ライン(年間製造能力131万函)、従業員数1,213人であった。以後国内需要の増加、各種缶詰の輸出振興などにより、順調な発展を遂げた。そして、1950(昭和25)年2月東洋錻力印刷(株)、同年8月東罐倉庫(株)、同年12月日本フェロー(株)、東洋印刷工業(株)、東洋電解(株)、1953(昭和28)年2月日本コンソリデーテッド石油(株)、同年11月東洋エアロゾール工業(株)、同年12月大阪電解(株)、1954(昭和29)年7月東洋運送(株)などの関連会社を設立した(20)



(注)
(1)前掲 (3)-1

(2)前掲 (3)-5

(3)前掲 (3)-21

(4)前掲 (3)-8

(5)前掲 (3)-3

(6)一般缶連合会ニュース No.30 1985

(7)一般缶連合会ニュース No.41 1988)

(8)一般缶連合会ニュース No.52 1991

(9)前掲 (3)-3

(10)一般缶連合会ニュース No.46 1989

(11)一般缶連合会ニュース No53 1991

(12)一般缶連合会ニュース No.37 1987

(13)一般缶連合会ニュース No.40 1988

(14) 一般缶連合会ニュース No.50 1990

(15) 一般缶連合会ニュース No.32 1986

(16) 一般缶連合会ニュース No.53 1991

(17)一般缶連合会ニュース No.36 1987

(18)前掲 (4)-12

(19)前掲 (3)-9

(20)前掲 (4)-16