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全日本一般缶工業団体連合会

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8.戦後の混乱と事業の再開

1945(昭和20)年、日本政府はポツダム宣言の受諾を決定し、8月15日天皇自ら終戦の詔書をラジオ放送して太平洋戦争は終わった。ポツダム宣言の受諾によって、わが国は連合国軍に占領され、非軍事化と民主化が推し進められた。寄生地主制と財閥の解体が進められ、民主的な日本国憲法が制定された。しかし、軍事産業の崩壊と兵士の復員などで失業者が急増し、食料不足や物価の上昇で国民生活は困難を極めた(1)
終戦直後の製缶業界は、工場や設備が焼失し、ブリキや錫が統制されている上技術者や従業員が四散し、休業の状態であった(2)
1946(昭和21)年、金方堂松本工業(株)は高階工場で事業を再開した。戦災で焼けたブリキをハンマーで叩いて剥し、ローソク立てなどを作ってその日の糧と従業員への賃金を捻出した。また、朝霞の米軍キャンプからビールの空缶を購入し、苛性ソーダで洗って天底を抜き、胴を使って更生缶を作った。物資の不足した時代であったので、紙とアスファル トを使ってブリキ缶の代用品を考案したこともあった。これに千代紙を貼ったものは飛ぶように売れた。この時代に、農林省より日本茶輸出のためのサンプル用容器の製造要請も受けた。そして、名古屋の同業者にも呼びかけ、3か月で約120万缶の完納を果たした。

(1947〔昭和22〕年、戦後の輸出承認番号NO.1)。1947(昭和22)年10月、松本猪太郎は東京都錻力製缶工業協同組合常務理事に就任した。そして、1949(昭和24)年7月、松本一郎が専務取締役に就任し、資本金を37万円に増資した。この時、金方堂松本工業(株)の年商は3,300万円であった(3)。 水戸部源四郎は、戦災により疎開先、親戚の群馬県桐生市で終戦を迎えた。そして、当地で15万円を投資して、親族と共同で織物工場を始めた。製品は飛ぶように売れ、またたく間に土地・建物などかなりの財をなし、設備も次々と拡張していった。しかし、大手紡績会社が操業を再開したことから、好調は長くは続かず工場を閉鎖、1949(昭和24)年4月、製缶事業を再開するため神田に戻った。古材などを集めて、50坪ほどの工場づくりに取り掛かった。電力を秋葉原から引くため、電柱15本と導線を買い込み、トランスは桐生から中古のものを取り寄せた。機械は、焼けただれたものを修復した。技術者や従業員は、戦前からの者を集めた。砂糖が統制品で森永製菓(株)からの注文がほとんど無い時期であったが、昔の取り引きのよしみでネコイラズ本舗の成毛英之助商店からチューブ缶の大量注文が舞い込んだ。
ブリキや錫が統制品で資材の手当ては困難を極めたが、厚生省より猫いらず容器の特別割り当て指定を受け、相当量の確保ができたことは幸いであった。それでも、駐留軍の使い捨てた空缶を洗滌し開いて延板にして使用したり、駐留軍に納める卵の容器をボール紙で作る作業もおこなった。また、当時の大きな得意先として田島応用化学があり、ルーフイング用の接着剤を容れる缶の製造をおこなった(4)

小島プレス工業(株)は、戦災で工場施設の一部を焼失したが、同業他社に比べ設備を温存してあったので、材料さえあれば作業はいつでも始められる状態であった。終戦の翌日の8月16日、早くも三宝製薬(株)からの注文で、印刷なしの小丸缶15万個、同じく無地大丸缶15万個の製缶に着手した。ブリキ印刷は、材料不足と電力事情の悪化のため、生産が著しく阻害された。1946(昭和21)年11月以降、小島プレス工業(株)は週に3日の休電日を指定された。ブリキ材料が不足し、米軍やその家庭から出る食料品の廃缶を利用することもあった。
廃缶を利用して王冠、ビンの蓋、靴墨缶、殺虫剤缶などを製造した。空缶内面のニス(金色)を表面に使用し、念入りなものにはエンボスをしてマークや商品名をつけたりした(5)
中田武彦は、1946(昭和21)年5月東洋工缶(株)を退社し、1947(昭和22)年8月都電荒川車庫近くに閉鎖された鉄工所(この一角は戦災を免れた)の一部を借り、プレス3台を据え付けて製缶事業を開始した。当時ブリキ板が不足し、駐留軍の使用済みビール缶、1号缶を開胴して王冠や靴墨缶を製造した。また、アドリアンシーマーや18リットル缶の胴板プレスを入手し、わずかであったが18リットル缶の製造もおこなった(6)

東京では、この時期に製缶事業の再開、組織(社名)変更がおこなわれた。1946(昭和21)年には、(株)ミタミ製作所(4月)、井上製缶(株)(9月)、辻製缶所(11月)、戸川製缶(合)(12月)が製缶事業を再開した。また、杉浦製缶所はこの年に、中川商会は翌年の1947(昭和22)年に製缶事業を再開した。その他、現在の(株)久保田製缶は1945(昭和20)年9月、現在の東亜製缶(株)は同年10月、現在の(株)鎌田製罐工場は1948(昭和23)年、現在の(株)松村製罐は1949(昭和24)年にそれぞれ事業を再開した。組織(社名)変更としては、1946(昭和21)年8月江東堂が株式会社に改組されて(株)高橋製作所となり、同年12月個人企業より(株)澤井製缶工業所が設立された。また、1948(昭和23)年4月(株)ミタミ製作所が(株)広浜製作所と社名変更され、同年6月杉浦製缶所が墨田区に移転して杉浦製缶(株)となった。
この時期に創業した企業もあった。1947(昭和22)年1月、加島光茂(江戸川製罐(株)〔江戸川区平井〕の創業者)が現在の本社所在地で化学工業の缶の製造販売を開始した。
同年11月には、広浜製作所(現在の広浜金属工業(株)〔墨田区石原〕)が創業した。また、1946(昭和21)年9月現在のサクラ罐工業(株)(大田区本羽田)が現在の大田区南六郷の地に創業したが、1949(昭和24)年現在の本社所在地に移転した(7)(8)(9)

大阪では、1945(昭和20)年11月三国航空機材(株)が三国金属工業(株)と商号変更、1948(昭和23)年清水隆雄(大阪製缶(株)〔東大阪市〕の創業者)が大阪市において清水金属工業所を創業した。また、小西音松(現在の生野金属(株)〔大阪府高石市〕の創業者)は、大阪市で生野金属製作所(1949〔昭和24〕年株式会社に改組)を創業した(10)(11)(12)

愛知では、1945(昭和20)年鬼頭定満(現在の(有)鬼頭製作所〔愛知県津島市〕の創業者)が製缶業を創業した。鬼頭定満は、和菓子製造や販売の仕事をしていたが、戦時中兵器廠のプレスの仕事を手掛けるようになり、それがきっかけで駐留軍の廃缶を利用して缶を再生する仕事を始めた。また、1946(昭和21)年12月岡崎ブリキ製品(株)は株式会社に組織変更し、(株)鋼辰製作所となった(13)(14)

東洋製罐(株)は、1948(昭和23)年2月8日経済力の集中企業としての指定を受け、1949(昭和24)年7月8日分離会社1社を新設して小樽工場および付属設備ならびに工場以外の他の資産を譲渡しなければならない旨の再編計画の指令を受けた。そして、この指令に基づき第二会社北海製罐(株)(資本金5,000万円、社長・小林富佐雄)を設立した(15)
終戦後、東洋鋼飯(株)下松工場では焼けた石油タンクの解体材からブリキ原板を作って、細々ながらブリキの生産を再開した。1948(昭和23)年11月には八幡製鉄所のHDラインも3基目が稼動、東洋鋼鈑(株)下松工場のHDラインも生産が軌道に乗るようになった。当時農林省食品局(食品)、大蔵省アルコール部(王冠)、厚生省薬務局(薬品缶)、商工省石油局(石油缶)、同雑貨局(玩具)などがブリキ配給キップを発行し、これを各地のブリキ扱い問屋に提示した。ブランク板などの輸入もおこなわれたが、ブリキ板の国内製造の再開が早かったこともあり、ブリキ問屋の復興が進んだ。1949(昭和24)年富安商店はブリキメーカーの指定商社となり、財閥解体の影響もあって一時東洋製罐(株)が購入するブリキの大半を扱ったこともあった(16)



(注)
(1)前掲 (3)-(1)

(2)(2)前掲 (3)-(5)

(3)前掲 3-(5)

(4)前掲 (3)-(21)
田島応用化学は、紙の上にアスファルトを敷きその上に砂を播いて接着した便利がわ らを開発した企業で、水戸部製缶所とは1917(大正6)、1918(大正7)年頃からの つきあいがあった。ルーフイング用の接着剤を容れる缶は、沖縄の駐留軍兵舎や倉庫 に使用する特需関係のものと全国への宣伝用のものがあった。

(5)前掲 (3)-(8)

(6)前掲 (3)-(3)

(7)前掲 (3)-(3)

(8)一般缶連合会ニュース No.54 1991

(9)前掲 (3)―(3)

(10)一般缶連合会ニュース NO.32 1986

(11)一般缶連合会ニュース No53 1991

(12)一般缶連合会ニュース NO.33 1986

(13)一般缶連合会ニュース NO.39 1987

(14) 一般缶連合会ニュース No51 1991

(15) 前掲 4-(16)

(16) 前掲 (4)-(12)