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全日本一般缶工業団体連合会

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7.戦時統制下の衰退と大空襲による被災

1936(昭和11)年2月26日、一部の陸軍青年将校が軍部政権の樹立を目指して、千数百人の兵を率いて反乱を起こした。いわゆる二・二六事件で、この結果日本は軍国主義化の方向へと大きく歩を進めることになった。国際連盟の脱退(1933〔昭和8〕年)後、国際的に孤立していた日本は、1936(昭和11)年日独防共協定を結び、翌年イタリアを加えて日・独・伊3国間の枢軸関係が成立した。このような国際情勢の変化の中で、日中戦争が発した。1937(昭和12)年蘆溝橋事件が起き、戦線は中国各地に広がり、長期戦の様相を呈していった。
戦争の長期化に伴い、国内体制も戦時体制に切り換えられた。1937(昭和12)年の国民精神総動員運動、1938(昭和13)年の国家総動員法、1939(昭和14)年の国民徴用令によって、物資の統制や労働者の徴用、軍需工場への動員がおこなわれた。

大企業は軍需生産で国策への協力を進め、中小企業は強制的に整理統合されていった(1)
このような戦時統制の強化の中で、一般缶製造業も衰退の一途を辿っていった。そして、1944(昭和19)年7月のサイパン島の陥落を機にアメリカ軍の日本本土爆撃が激化し、全国の都市が被災した(2).(3)
大都市内部に立地する一般缶製造業も大きな被害を受けた。金方堂松本ぶりき製罐所は、1939(昭和14)年個人経営から脱皮し、金方堂松本工業(株)(資本金10万円)に組織変更した。しかし、戦時統制が強化され、1941(昭和16)年の物資統制令などを通じて企業活動が縛られ、戦争協力体制がつくりあげられていった。ブリキは民需用の使用を禁じられ、製缶業者はやむなく軍需工場に転換せざるを得なくなった。
1941(昭和16)年、金方堂松本工業(株)は軍需工場の指定をうけ、赤羽造兵廠向けに乾パン缶や砲弾薬函などの製造を開始した。戦争が激しくなると、1943(昭和18)年12月、埼玉県入間郡藤間村字高階に高階疎開工場を設け、生産設備を移動した。1945(昭和20)年3月9日夜半の東京大空襲では、金方堂松本工業(株)も大きな被害を受け、本社社屋と住居が焼失した(4)

水戸部製缶所は、二・二六事件の当夜9時頃提灯を持ち大八車に森永製菓(株)に納入する缶を山積して行く途中、芝増上寺を過ぎるあたりで検問にあい詰問されたことがあった。水戸部製缶所は、事業拡張に伴いすでに1930(昭和5)年4月、現在の横浜市鶴見区下末吉町に生産工場を建設していたが、1941(昭和16)年物資統制令が発令されると民需用にブリキを使用することが禁じられ、鶴見工場は軍需工場に転換せざるを得なくなった。また、同年神田工場も海軍の監督工場となり、平塚、相模原の火薬廠海軍工廠向けに各種容器などを製造した。1945(昭和20)年3月9日の東京大空襲では神田工場が焼失し、また同年6月の空襲では鶴見工場および下請け工場が焼失した(5)

江東堂は、近隣より騒音の苦情が多発したため、1938(昭和13)年9月葛飾区青戸に工場を新設した。しかし、戦時色が濃くなりブリキ統制になると、下請けで化学兵器の緑筒、赤筒等の製造をおこなった。1944(昭和19)年1月には海軍航空兵器技術廠より水上照明弾の筒を受注し、終戦までこれを製造した(6)
井上製缶工場は、1939(昭和14)年9月井上製缶?鰍 ノ改組され、同月第一陸軍造兵廠指定工場になった。そして、1941(昭和16)年4月第二陸軍造兵廠指定工場となり、特殊兵器部品の生産にあたった(7)
広浜源助(広浜製缶(株)[墨田区京島]の創業者)は、1933(昭和8)年1月現在の台東区で個人経営による製缶業を創業したが、1943(昭和18)年11月戦時下の国策に従い、金属加工業者12人と企業合同し(有)ミタミ製作所(資本金17万円、所在地は現在の墨田区京島、事業目的は航空機電源部品の製造)の設立に参加し、取締役工場長(1944〔昭和19〕年11月代表取締役社長に就任)となった(8)

東洋工缶(株)は、1940(昭和15)年赤羽、原長、須郷、川島の4業者の企業合同により設立された。工場・事務所は、旧赤羽製缶所(本所区緑町3丁目)を使用した。中田武彦が工場長に就任した。当時、一般缶用のブリキ板の配給は皆無に等しく、ブリキ印刷機や一般缶用の一部の機械は遊休機械として金属回収に供出された。陸軍燃料本部の18リットル缶、造兵廠の弾薬函の製造をおこなった。また、安立電機(株)の紙蓄電池のブリキケース、通信機用抵抗器の口金の製造もおこなった。しかし、1945(昭和20)年3月9・10日の東京大空襲で全焼し、寮にいた女子従業員も全員即日帰郷した。本所区内にいた従業員のうち数人は戦災死した。数日後長野県への工場疎開を決意し、焼跡を整理して機械と火を被ったブリキ板を貨車2輌に積み込んで、燃料本部の力を借りて両国駅から信越線屋代駅まで発送した。数人の従業員が、疎開先で食糧事情に悩まされながら工場再建に努めた。プレスの基礎になるセメントはなく、ベルトなどは紙紐を編んだ代用品であった。手作業に頼るしかなく、紙蓄電池のケースを作るより手当てがなかった(9)

杉浦製缶所は、1931(昭和6)年3月二代目杉浦金一が事業を継承し機械設備を導入したが、経済統制が強化される中金方堂松本工業(株)、鎌田製缶所、戸塚製缶所などと企業合同し、陸軍糧秣廠造兵廠の仕事をした(10)
澤井新太郎(澤井製罐(株)[台東区竜泉]の創業者)は、1937(昭和12)年7月荒川区三河島町において廃缶再生業を創業した。缶詰の空いた廃缶を再生し容器として販売、戦時下のブリキなど資材不足の代替缶に使われた(11)(12)
戸川製缶合資会社は、統制経済の下鐘ケ淵重工業の傘下にはいった。1945(昭和20)年10月、戦災により長野県小県郡滋野村に疎開した(13)
中川商会(現在の中川製缶(株)[文京区湯島])は、1942(昭和17)年6月1日日本橋において設立された。軟膏缶を軍関係へ販売した(14)

大日製罐(株)(本店埼玉県鴻巣市)は、1937(昭和12)年2月15日大日本インキ化学工業(株)の関係会社として発足した。
東京地区では、この戦時統制の時代に創業した企業もあった。1936(昭和11)年9月1日、久保田製缶所(現在の(株)久保田製缶〔台東区東上野〕)が創業、手づくり菓子缶、劇場缶の製造販売をおこなった(15)
この年の3月には現在の(株)関製缶所(墨田区石原)が創業(16)、翌年には現在の(株)松村製罐(墨田区石原)も創業したが、1944(昭和19)年静岡県に疎開した(17)。また、1938(昭和13)年12月辻製缶所(現在の辻製缶(株)[埼玉県川口市])が成瀬製缶所(浅草小島町)より独立創業、現在の台東区元浅草で手づくり缶の製造を開始した(18)(19)

その他、企業組織の変更もおこなわれた。古茂田純之輔(古茂田製罐(株)[台東区台東]の創業者)は1929(昭和4)年12月に個人経営による製罐業を創業したが、事業の伸展により1940(昭和15)年5月個人経営から株式会社に組織を変更して、行幸堂古茂田製罐(株)を設立した(20)。そして、戦時下においては軍の監督工場となり、大東航空無線協力工場として航空機部品の制作に従事したが、昭和20年3月の大空襲にあい工場施設の全部を焼失した。また現在の寺島製缶工業、1935(昭和10)年10月に設立した(合)昭和製缶所を、1944(昭和19)年11月寺島製缶工業(株)(本社浅草小島町、工場寺島町)に組織変更した(21)(22)。 大阪地区には、1935(昭和10) 年頃すでに西区の薩摩堀に大阪錻力製缶工業組合ができており、280社も組合員があったといわれる。しかし、当時は家内工業的な零細企業がほとんどであった。また輸出缶に関しては、本町に大阪錻力製品共販(株)があった。五ガロン缶も、北区の堂ビルに五ガロン缶工業組合ができていた。日中戦争が進展し、ブリキ板がだんだん少なくなってくると、戦時統制が強化され15社に企業合同を強いられた。当時東京地区は25社に、その他は10社に、全国で50社に統合されたといわれる(23)(24)。 大阪コルク工業(株)(現在の大和製罐(株)[中央区日本橋])は、1939(昭和14)年5月20日に創業した。当時、びん栓、王冠用など各種コルク製品の製造のほか、一般缶の製造やブリキ印刷などもおこなっていた。 辻ブリキ印刷所は、1941(昭和16)年12月現在の豊中市に工場を建設し、企業合同によって日満製缶印刷工業(有)を設立した。さらに、三国航空機材(株)と組織変更し川西航空機(株)の協力工場として航空機部品の製作に従事したが、1945(昭和20)年6月の大阪大空襲で工場建物の大半を焼失した(25)

(合)側島商店(1923〔大正12〕年よりブリキ印刷を兼業)は、1937(昭和12)年養蚕部門と製缶部門を分離、大阪陸軍糧秣廠の指定工場となり乾パンの缶の製造をおこなった。1942(昭和17)年8月には、名古屋地区の有志とともに側島製缶(株)と法人改組し、乾パンの缶や航空機部品(愛知航空)を製造した(26)。 岡崎ブリキ製品(有)(現在の銅辰製作所)は、1940(昭和15)年に設立され、豊川工廠の監督工場となった。板金部門は、愛知時計の軍需品下請け工場となった(27)。 次に、価格統制下の東京府認可組合協定価格(関東錻力製罐工業組合、東京錻力製品工業組合、1940〔昭和15〕年,資料(3)、京都府錻力製品価格表(京都錻力製品工業組合、1940〔昭和15〕年、資料(4)を紹介したい。

小島印刷(株)は、1937(昭和12)年の輸出入品臨時措置法の制定で軍需物資以外の輸入が極度に制限されたため、錫や鉛の代用品の研究によってアルミニウム・チューブの完成に漕着けた。一方、1937(昭和12)年から1938(昭和13)年にかけて森永製菓場(株)大崎工場跡地に工場・倉庫を建設、そのうちの一棟に専用機械とベルトコンベァーを設備、醤油8リットル入缶の量産をおこなった。そして、同じ三棟をアルミ・チューブの専用工場にあてた。アルミ・チューブの生産に要する焼鈍炉、熔解炉やスラグの製造などは、すべてこれらの工場内でおこなわれた。小島印刷(株)は、これより前の1935(昭和10)年東京工場に隣接した目黒川の改修工事に伴う土地払い下げで、工場に隣接した南西の敷地を買収した。翌1936(昭和11)年には、アメリカから殖版機(フォト・コンポージング・マシン)を購入、写真製版用機械、回転塗装機、製版機などを増設した。1938(昭和13)年下期の時点で、従業員は452人であった。

国家総動員法に基づく統制は一段と厳しさを加え、生産のすべてが軍需関係に限られ材料ブリキやチューブの錫が不足がちとなった。それでも、1942(昭和17)年12月には滋賀県近江八幡に、材木置場を改良してメンソレータムノ専用工場を建設し運転を開始した。統制経済の下で新規工場の建設が困難な時代ではあったが、医薬品が軍部に重要な製品であったため、特別に許可が下りた。材料のブリキ板は、割当量が配給された。翌1943(昭和18)年には、生産用の材料はほとんど底をついた。かろうじて配給されても不良品で、生産に支障をきたした。また、労働力も不足の状態となった。青少年雇用制限令で採用が困難な上、人がどんどん徴用で取られていった。

1944(昭和19)年6月、社名を小島プレス工業(株)に改称した。印刷のつく社名では不急産業扱いされ、材料の配給制限や労働力の徴用を防ぐための苦肉に策であった。幸いにも小島プレス工業(株)は、軍関係の印刷をおこなっていたため企業整備の対象とならず、ブリキ印刷機などを保持することができた。1944(昭和19)年6月、小島プレス工業(株)は、陸軍糧秣廠東京出張所より陸軍監督工場に指定された。また同月末には、海軍艦政本部より海軍監督工場に指定された。
同年7月には、勤労報国隊が来場し生産を維持した。軍の指定工場になってからは、軍隊用の粉末醤油を入れる缶、発煙筒、毒ガス缶などを製造した。また、大島電気工業から指定を受け、航空機用の電気部品である接栓を製造した。1945(昭和20)年にはいると、3月14日大阪馬淵町の大阪工場が戦火にあって全焼した。また、5月24日東京工場の一部も戦火にあった。小島プレス工業(株)では、設備だけでなく労力も応召、徴用によって減少し、同年8月にはわずか37人にまでなった。同年8月6日、プレス関係の軍需品製造用機械一式を軍の命令で宮城県白石町に疎開させたが、まもなく終戦となった(28)(29)(30)



(注)
(1)前掲3-(1)

(2)前掲 (3)-(1)

(3)「日本史」教授資料編集部編:『日本史(改訂版)教授資料』山上出版社 1986
3月9日の真夜中からの東京大空襲は、江東地区を中心にした下町一帯に大きな被害が出た。消失家屋約27万戸(全戸数の17%)、死者約10万人、負傷者約13万人、罹災者約100万人、関東大震災を上まわる惨状であった。

(4)前掲 (3)-(5)

(5)前掲 (3)-(21)

(6)前掲 (3)-(3)

(7)前掲 (3)-(3)

(8)前掲 (3)-(8)

(9)前掲 (3)―(3)

(10)前掲 (3)-(3)

(11)前掲 (3)-(3)

(12)一般缶連合会ニュース NO.45 1989

(13)前掲 (3)-(3)

(14) 前掲 (3)-(3)

(15) 前掲 (3)-(3)

(16) 前掲 (3)-(3)

(17) 前掲 (3)-(3)

(18) 前掲 (3)-(3)

(19) 一般缶連合会ニュース NO.41 1988

(20) 前掲 (3)-(3)

(21) 前掲 (3)-(3)

(22) 一般缶連合会ニュース No.35 1986

(23) 一般缶連合会ニュース NO.43 1988

(24) 前掲 (3)-(5)
東京錻力缶組合は、1935(昭和10)年4月松本猪太郎の提唱により、300の業者を結集して結成された。松本猪太郎は、初代組合長に推された。松本猪太郎は、1940(昭和15)年4月関東錻力製罐協同組合理事長、1943(昭和18)年7月日本錻力製品統制組合常務理事に就任した。

(25) 一般缶連合会ニュース NO.53 1991

(26) 一般缶連合会ニュース NO.36 1987

(27) 一般缶連合会ニュース NO.51 1991

(28) 前掲 (3)-8)

(29) 前掲 (3)-9)
東京では、東洋製罐、共同印刷、小島プレス工業、美秀堂ブリキ印刷所などが車関係の仕事をしていたので、企業整備の対象とならなかった。東京大空襲で大部分の金属印刷工場は離散し、結局残ったのは東洋製罐と小島プレス工業の一部ぐらいであったといわれる。大阪地区では、製缶業者と金属印刷業者の合同、金属印刷業者同士の合同(日本錻力印刷)などがあったが、結局は離散し、終戦時に残ったのは三国金属、喜多産業、ヒロタ錻力、桜井ブリキ印刷の4社であったといわれる。名古屋地区は軍への供出と戦災で全滅、広島地区は原爆で東洋製罐、山陽ブリキ、旧広島製罐などが焼失した。

(30) 前掲 (4)-16)
1941(昭和16)年7月21日、東洋製罐を中心とする8社(東洋製罐、北海製罐倉庫、日本製罐、朝鮮製罐、明光堂、広島製罐、鶴見製罐、長瀬商事)が合併し新東洋製罐く資本金3,258万円、内払込み2,688万4千円)が発足した。しかし、1941(昭和16)年以降ブリキの供給量は急減し、東洋製罐でも航空機部品などの軍需品の製造をおこなった(陸海軍から正式に軍需会社に指定されたのは1944〔昭和19〕年4月15日)。1945(昭和20)年にはいると、全国主要都市が爆撃にあったが、東洋製罐は大阪浦江工場、兵庫作業所、広島製作工場が全焼したものの、他の事業場は戦災を免れた。