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全日本一般缶工業団体連合会

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6.昭和恐慌とその影響

1929(昭和4)年10月、アメリカに端を発した恐慌は、世界恐慌に発展していった。日本経済は大打撃を受け、企業の操業短縮・倒産、失業者の増大など深刻な状態に陥った。 都市の失業者が帰農するほどで、社会不安が増大し政治不信が急速に高まった(1)。 一般缶製造業も、この昭和恐慌の影響をまともに被った(2)(3)。 原材料の高騰や業者の乱立で競争が激化した時期であるが、金方堂松本ぶりき製罐所では郵便ポスト型貯金箱が不況ムードに乗って売れはしたものの、家屋の一部を人に貸して一時を凌いだこともあった(4)。 水戸部製缶所は、森永製菓(株)との取り引き、厚生省指定の猫いらず容器チューブの製造開始などで、不況の影響を最小限にとどめる経営努力をした(5)。 小島印刷(株)では、1928(昭和3)年下期から1930(昭和5)年下期にかけて純利益が減少し、1929(昭和4)年下期と1930(昭和5)年下期には無配に終わった。1931(昭和6)年には売上高も大幅に後退、上期の配当は4分から5分の復配をみたに過ぎなかった。

1931(昭和6)年からヒゲタ、ヤマサなどの醤油缶の製造を開始、1932(昭和7)年の関税法の改正後近江兄弟社のメンソレータムの缶の製造を開始した。メンソレータムのような缶入りやチューブ入りの薬品に高い関税がかけられるようになったため、発売元の近江兄弟社はこれをドラム缶で輸入し、商品缶に詰めて販売することとなった。そこで、その 缶の製造を小島印刷(株)に依頼した。メンソレータムの缶の製造は、当時の不況脱出に一役買っただけでなく、小島印刷(株)の製缶技術の向上を促し、後年の製缶部門の飛躍に大きな力となった。1934(昭和9)年8月には、本社工場に隣接した(株)豊文社の土地と建物を買い受け、建物を製缶分室とした。そして、ライオン歯磨の潤製缶を生産するため、特設機械の編成による量産体制を敷いた。同年、大阪工場にも製缶部を設け、生産を開始した。当時のキッコーマン醤油の関西向け8リットル入りの角缶は、ここで生産された(6)

1933(昭和8)、1934(昭和9)年頃のわが国のブリキ需要は、年間15~17万トンであった。しかし、日本製鉄(株)八幡製鉄所が供給できる量は4万トンぐらいにすぎなかった。その多くを、イギリスやアメリカからの輸入に依存していた。しかも、1931(昭和6)年には対外為替の暴落による輸入ブリキ価格の高騰があり、製缶業にとって厳しい時代となった。 そこで、東洋製罐(株)の高崎達之肋常務は、日本製鉄(株)や関係有力者の応援を得て、1934(昭和9)年4月東洋鋼鈑(株)(資本金500万円)を設立した。そして、工場を山口県下松に建設、機械設備をアメリカから輸入、原料鋼板を日本製鉄(株)から購入して生産を開始した(7)(8)(9)

この時期、東洋製罐(株)も大きな試練を経験した。購買力の減退のため缶詰製造業者が生産を手控えたこともあり、業績が悪化して株式配当の減配、役員・従業員の給与減額などをおこなった。当社第27期(1930〔昭和5 〕年6月1日~同年11月30日)の缶詰用空缶は、前年同期に比較して製缶数で47%、販売数で40%の激減を示した。このような中1929(昭和4)年、青森港がサケ・マス漁の水揚げ地となって缶詰工場ができたため、仙台工場を青森に移設、1932(昭和7)年日本製罐(株)を傘下に収めた。また、1929(昭和4)年カニ工船向けの製缶を目的に、共同漁業(株)3割、東洋製罐(株)5割、東洋製罐(株)従業員2割の出資比率で戸畑製罐(株)が設立されたが、1933(昭和8)年9月に東洋製罐(株)に合併された(10)(11)(12)



(注)
(1)前掲 (3)-(1)

(2)一般缶連合会ニュース NO.53 1991
   昭和初期には、1927(昭和2)年2月、大阪市福島区に辻ブリキ印刷所(現在の三国    金属工業(株)[大阪府豊中市])が創業した。

(3)前掲 (3)-(3)
   1929(昭和4)年12月、現在の古茂田製缶(株)(台東区台東)が個人経営による製缶業を創業、1931(昭和6)年6月、現在の東亜製缶(株)(埼玉県草加市)が浅草区永住町において独立した。また、1933(昭和8)年10月、中田武彦(現在の(株)中田製作所〔北区昭和町〕の取締役社長)が赤羽製缶所に入所した。この頃、製缶業は一般の中小商工業と同じく、労働時間は午前7時から午後6時、残業は午後6時30分から9時、公休日は月2回が普通であった。

(4)前掲 (3)-(5)

(5)前掲 (3)-(21)

(6)前掲 (3)-(8)
   小島印刷(株)は、1927(昭和2)年9月、大崎工場に隣接した橘硝子製造所と桜組所有の土地を買収した。また同年10月、大阪のプラント社の隣接地に工場を建設、従来の鷺洲町の工場を廃止してここに移転、紙印刷や紙器のほか製缶もおこなえる設備を整えた。しかし、1928(昭和3)年7月24日、大崎工場が出火で全焼した。そこで8月3日仮工場の建設を申請、そばに購入した建物を改造してオフセット印刷機2台を設置、またこれと同時に森永製菓(株)大崎工場の一部を借りて、ここに製缶部門を一時的に移した。10月末には新工場が完成し、従来の紙印刷、紙器、製版、ブリキ印刷、製缶の生産体制が復旧した。1929(昭和4)年4月には、本館の建築に着工、翌1930(昭和5)年3月9日に完成した。そして、同年4月1日丸ビルにあった本社をここに移転、1931(昭和6)年9月大島工場を廃止して本社に吸収した。大島工場は、もと蓮田であった所に盛り土をして工場を建設したため地盤が悪く、降雨のたびに出水したためである。

(7)前掲 (3)-(9)

(8)前掲 (4)-(12)

(9)前掲 (4)―(16)

(10)前掲 (4)-(15)

(11)前掲 (4)-(16)

(12)前掲 (4)-(28)