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全日本一般缶工業団体連合会

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5.関東大震災による被害とその復興

1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東地方にマグニチュード7.9の地震が発生した。これが関東大震災で、死者・行方不明者は14万人以上、家屋の倒壊や火災の発生で史上最悪の災害となった(1)
東京や横浜など日本の政治・経済の中心地を襲ったため、日本経済は大打撃を被り、社会的・経済的不安はいっそう増大した。
銀行手持ちの手形が決済不能となり、日本銀行の特別融資で一時を凌いだが、その後も不況は続いた(2)(3)
関東大震災は、大都市内部に立地する一般缶製造業などに甚大な被害を与えた。
江東堂、旭食品(株)、鎌田栄助の工場、金方堂松本ぶりき製罐所などが被災し、経営が中断された。江東堂は、大震災で全焼し、その年の12月現在の本社のある場所に移転開業した。旭食品、大震災で全焼し、その年の11月に再建して缶詰部門を廃止、製缶専業の戸川製缶(合)となった。鎌田栄助の工場も被災、茶缶などの製造販売が一時できなくなった(4)

金方堂松本ぶりき製罐所は下谷区西町にあったが、この地域に大震災による火災が迫ったのは9月2日の午後のことであった。松本猪太郎は、町内に危険が迫ってきたため、家族・店員を指図し、家財道具を大八車に積んで上野公園に避難した。夕方には公園前広場にも猛火が渦巻き、園内に危険が迫ったため、一家は尾久方面に難を避けた。この大震災で、財産も店も、そして下町に集中していた得意先や協力工場もその多くが消滅してしまった。倉庫の焼跡からいろは肉鍋を掘り出し、それを磨いて1個50銭で上野公園で販売し、家計を支えた。まもなく松本猪太郎は、焼跡に仮小屋を作り営業を開始したが、震災復興の進展とともに西町周辺の区画整理と道路の拡幅工事もおこなわれ、1927(昭和2)年そこに店舗兼住居を完成させた。松本猪太郎は、震災の教訓を後年の工場の分散配置、本社金庫への災害準備金の常備などに生かしている(5)

水戸部製缶所の場合は、一家が上野公園に避難したが、佐久間町と和泉町が焼けずに残ったため、工場の建物の一部が破損しただけで、材料および製品はほとんど被害を受けなかった。この大震災の年に水戸部源四郎は20歳を迎え、12月1日横須賀海兵団の舞鶴練習部に入団した。水戸部源四郎が海軍を除隊したのは1926(大正15)年12月、半年間郷里の栃木県で休養した後再び水戸部製缶所へ戻った(6)

小島印刷(株)は、大震災で芝神明町の本社と工場が類焼で全滅した。工場に火災が起きたのは夜の11時頃で、本社にあった帳簿類などを車に積んで芝公園の社長の自宅へ運んだ。しばらくの間、この社長宅を仮事務所にして仕事がおこなわれた。しかし、大崎や大島などの分工場が災害を免れたことは不幸中の幸いであった。年末年始の進物用品の製造時期で森永製菓どから大量注文を受けていたが、東京の同業者が潰滅状態となっていたため、森川印刷所、高野印刷所、精版印刷(株)などの大阪の同業者に依頼する方針がとられた。また、大阪工場の印刷設備を増強する必要に迫られ、中島機械工場のオフセット印刷機数台を譲り受け、受注量を消化した。

なお当時小島印刷(株)は、教科書や月刊雑誌の印刷などもおこなった。大震災後、小島印刷(株)は、工場設備の増設を進めた。1924(大正13)年4月大崎工場の隣接地を買収して工場を増設、紙印刷の仕事を再開、同年6月丸ビル(森永製菓(株)の事務所があった)に本社を移した。また、1925(大正14)年8月森永製菓(株)から芝工場(芝区三田四国町)を買い受け(1926〔大正15〕年(株)豊文社に貸与)、1926(大正15)年9月(合)プラント社(大阪市浪速区馬淵町)から大阪工場を買い取った。
このようにして、震災の年の総売上高が約116万円であったのに対して、1924(大正13)年には170万円以上を計上した。配当も震災の年に無配に終わったものが、1924(大正13)年には1割2分、1925(大正14)年には1割3分3厘に復配した。1926(大正15)年5月には、第2回化学工業博覧会に出品した印刷押出チューブなどで銀牌が授与された。小島印刷(株)の従業員数は、1926(大正15)年下半期の時点で501人を数えた。大震災前の1923(大正12)年7月に取締役森江有三と技師梅田長次郎が欧米の印刷事業視察のため渡航したが、1926(大正15)年9月にも小島初夫、山崎勇吉が中国市場視察のため渡航した(7)

東洋製罐(株)の東京工場、小島印刷(株)の大島工場・大崎工場は大震災の被害から逃れたが、他の多くの金属印刷業者・インキ業者は壊滅的打撃を受けた。金属印刷の老舗清洲商店は大震災を期に廃業、代わって大番頭であった筒井定之丞が同塵社を起こした。しかし、関東地区の業者が復興するまで、関西地区の業者は繁忙をきわめた。 二葉ブリキ印刷(合) 1922〔大正11〕年明光堂から独立)は、東洋製罐(株)の大阪工場が印刷をやっていなかったので、下請けで胃腸薬(星製薬)の缶の製造をおこなった。この時期に、関西地区ではヒロ夕錻力、辻ブリキ印刷、松浦ブリキ印刷工場、明光社などが開業した。

関東大震災前後までは印刷製缶兼業者が多かったが、その後金属印刷専業者、製缶専業者が増加した。これは、親工場に勤める技術者や技能者が下請けの金属印刷専業工場、製缶専業工場として独立していったものであろうといわれている(8)
東京の震災復興の時期に、創業した一般缶製造業者もあった。1924(大正13)年、定村三郎(寺島製缶工業(株)[葛飾区立石]の創業者)は、現在の台東区の地で茶缶製造販売の個人企業を創業した(9).(10)
また東京以外では、石原辰太郎((株)銅辰製作所〔愛知県岡崎市〕の創業者)がすでに1911(明治44)年建築板金工事業を創業していたが、大震災の年にブリキ製缶を開始した(11)
東洋製罐(株)は、大震災の影響もそれほど受けずこの時朝の事業は好調で、1割2部の恒例配当が続いた。そして、1926(大正15)年6月、東北地方の缶詰業者の要望もあり仙台工場を建設した(12)
また、1925(大正14)年4月、和田治五郎らの出資で函館市新浜町に日本製罐(株)(資本金50万円)が設立され、アストリヤ自動製缶機2ラインを設備し、サケ・マス・カニ缶詰用の空缶製造が開始された(13)



(注)
(1)守屋喜久夫:『地震災害の防止と対策--地質学からの予見--』鹿島出版会 1980

(2)前掲 (3)-1)

(3)前掲 (3)-12)

(4)前掲 (3)-3)

(5)前掲 (3)-5)

(6)前掲(3)-21)

(7) 前掲(3)-8)

(8)前掲 (3)-9)

(9)一般缶連合会ニュース NO.35 1986

(10)前掲 (3)-3)

(11)一般缶連合会ニュース NO.51 1992

(12)前掲 (4)-16)

(13)前掲 (4)-28)