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全日本一般缶工業団体連合会

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3.日清 ・日露戦争による発展

1.日清戦争による発展の契機

日清両国は、農民の反乱(東学堂の乱)鎮圧後の朝鮮政府改革をめぐって対立し、1894(明治27)年8月、日清戦争が勃発した。日本軍の圧倒的な優勢のうちに終わり、1895(明治28)年4月、両国は下関条約を結んで講和した。
多額の賠償金を得た政府は、これをもとに軍備拡張を進め、金融 ・貿易などを中心に産業の振興を図った(1)
紡績 ・製糸などの繊維産業を中心とした産業革命が急速に進展した時期であるが(2)、一般缶製造業においても発展の契機になったものと思われる。
 1895(明治28)年、加藤利三郎((株)加藤製作所〔台東区浅草橋〕の創業者)が製缶業を創業、琺瑯びき弁当箱や茶缶などの家庭日用品の製造をこなった(3)。また、1895(明治28)年杉浦兵助(杉浦製罐(株)[江戸川区松江]の創業者)が植松製缶所(横浜市)に入所、1903(明治36)年10月海苔缶 ・茶缶を目的とした杉浦製缶所を東京市下谷区に創業した(4)
また、松本猪太郎(金方堂松本工業(株)[台東区東上野]の創業者)が1901(明治34)年14歳で島根県から上京し、経営者が同郷出身である川島製缶店に奉公した。川島製缶店は、芝区神谷町にあり、缶の製造販売を営んでいた。
当時の商店の雇用制度は、丁稚-手代-番頭-支配という段階に分かれていた。丁稚は、雑用、倉庫の商品や備品の手入れ、運搬など、直接営業に関係のない仕事をした。住み込みで月給が15銭位だったといわれる。手代は、昇格した一人前の店員で、帳付けや実際の販売に従事し、下請け加工の監督や取り締まりもおこなった。
番頭は、現金出納にタッチするべテランで、大口の取り引きや重要得意先に出かけた ・自宅通勤の月給が12~13円であったといわれる。
支配は、最高の位で、現場の人事管理が重要な仕事であった。このように、丁稚が年功、経験を積んで手代となり、手代のうちで能力のあるものが番頭となり、番頭の中でも最有力者が主人にかわつて店を取り仕切る支配になるという職能システムがとられていた。小規模経営ではあるが、上下関係の厳しい制度であった(5)
その他、現在の平和製缶(株)(大阪市住吉区)が、1902(明治35)年に創業した(6)。京都開化堂(初め山本開化堂として京都寺町通にあった)の資料により、当時のブリキ茶入正昧原価表を紹介したい(資料1)。主材料のブリキは、すでに1873(明治6)年イギリスから輸入されていたが(7)、缶などの表面装飾のためのブリキ印刷(金属印刷)は、1900(明治33)年小島長蔵(小島プレス工業(株)の創業者)によって本格的に開始された。小島長蔵はドイツのヒューゴッホ社から印刷機械を購入し、東京芝神明町で事業を開始した。1897(明治30)年頃、すでにプリキ玩具製造のための石版手刷り機によるブリキ印刷(それ以前には、木版を手動式の印刷機に取り付けて直接ブリキ板に印刷する方法が試みられた)がおこなわれていたが、小島工場の大量生産方式によるブリキ玩具の印刷は、当時画期的な事業として注目された。
ブリキ板に印刷したものは、輸入の菓子缶か無地のブリキ板に塗料をハケで塗った玩具があったくらいで、まだ需要は少なかった。そのため、小島長蔵はアメリカのインマン会社製の製缶機を5台購入し、紙器の製造をおこなった。この当時、東京の製缶業者の間では外国製の機械を使っているところは皆無に等しく、ほとんどが手作業に頼っていたといわれる。
小島工場のブリキ印刷の稼動が本格化するのは、1902(明治35)年から1903(明治36)年にかけてであった。1903(明治36)年には、ライオン歯磨の依頼により、ブリキ印刷の粉製家庭用大缶を初めて印刷し製缶した(8)(9)
日清戦争は、缶詰製造技術が進歩する契機にもなった。軍医から転じた福岡佐次郎がドイツに軍食調査のため派遣され、帰朝時に最新式ゴム巻締機械を購入、1900(明治33)年から宇治の陸軍糧秣廠(1897〔明治30〕年設置)で据付け運転した。民間の業者においても、アメリカ製パワープレス、ドイツ製ゴム式巻締機、国産パワープレス ・パワー切断器、底締器、缶詰蓋底ハンダ付け器などが据付けられるなど、技術的進歩がみられた(10)

2.日露戦争による発展の契機

 1902(明治35)年日英同盟協約が締結されたが、その後もロシアは満州に駐兵を続け、日本とロシアの交渉は決裂、1904(明治37)年2月両国は宣戦布告した。
翌年初め陸軍は旅順 ・奉天を占領、海軍は1905(明治38)年5月の日本海海戦で勝利した。
日露戦争前後には、重工業(鉄鋼 ・造船 ・工作機械)の発展がみられ、軍備拡張を中心とする財政政策がとられた(11)(12)
日露漁業条約の締結により、サケ ・マス ・カニを中心とする水産缶詰業が輸出を軸に発展を遂げたが(13)、一般缶製造業においても発展の契機になったものと思われる。
 1905(明治38)年5月、川島製缶店が廃業したため、松本猪太郎はその残務整理を終え、5月25日ブリキ缶の製造販売業で独立した。18歳の時であった。独立資金は、麹町銀行麻布支店(麻布〔現港区麻布〕飯倉にあった)に預けていた貯蓄156円を充てた。当時の米価は、1石が10円1銭であった。下谷区西町(現台東区東上野)に通間口6間、奥行13間の敷地で6畳、4畳半にお勝手付きという貸家を借り、金方堂松本ぶりき製缶所の看板を掲げた。ここは、現在の金方堂松本工業(株)本社所在地と同じ場所である。郷里から1人の雇い人を雇い入れ、2人で商売をした(14)。日露戦争中は、輸入ブリキが暴騰したこともあったが、軍需で製缶業界全般好況であった。粉醤油を入れる1ポンド缶、水飴を入れる九銭缶、乾パンを入れるブリキ箱などが製造された(15)(16)。1907(明治40)年には、恐慌が起こって企業活動が鈍った(17)
株の大暴落、銀行の取り付け騒ぎ、支払停止騒ぎ、労働争議の深刻化など、戦後恐慌が本格化し、日本経済は長い不況の時代に入った。当時の製缶業界は、乱立する群小企業がダンピング、顧客の争奪をする状態であった。軍需景気が去り、茶缶メーカーは茶缶へ、菓子缶メーカ一は菓子缶へと、専門分野の経営にもどったが、過当競争が激しかった(18)
 日露戦争を契機に、都市生活の洋風化傾向が進み、京浜地区でそれは顕著であった。洋菓子工業が経済変動の影響を受けながらも比較的順調で、一般缶製造業にもよい影響を与えた(19)。1910(明治43)年5月、水戸部伴寿(水戸部製缶(株)[千代田区神田和泉町]の創業者)が菓子問屋船橋商店の社長や森永製菓(株)社長のバックアッフ°で製缶業を創業した。
水戸部伴寿は、製缶業に着手する以前、神田御徒町の菓子問屋船橋商店に住み込み店員として働き、番頭になった。この菓子問屋に、現在の森永製菓初代社長森永太一郎(20)が社員2~3名を連れて出人りしていた。当時、船橋商店は、トタン屋根の板金職人に頼んで乳製品や菓子類を容れる缶を作らせていたが、需要が増加して間に合わなくなっていた。
また、パラフィン紙などの包装類の質も粗悪で、梅雨時期などには菓子が湿って香りが悪くなるという問題があった。水戸部伴寿は、切断機、蹴とばし機、動力プレス、巻締め機などのささやかな設備で製缶業をスタートさせたが、当時わが国でブリキ缶を製造する企業は大小合わせて10数社を数えるのみであったといわれる(21)

 この時期には、1910(明治43)年高橋忠蔵((株)高橋製作所〔台東区駒形〕の創業者)が本所番場町に世帯を持って高橋沖太郎商店の下請となり、もっぱら茶舗山本山の茶缶を製造した。高橋忠蔵は、1897(明治30)年4月より墨田区横網町にあった茶缶製造販売業の高橋沖太郎商店に茶缶製造工として弟子入りし、茶缶の製造に従事してきた(22)
一般缶は、防湿性に優れていることから、まずお茶の保存用としての茶缶に始まり、海苔缶 ・菓子缶 ・粉末製品用缶などに広まっていったようである(23)。特に茶缶は、手づくりによる伝統工芸品とでもいうべきもので、お茶を商う店でも特選として扱う高級品には、いい缶が使用された。缶詰用の缶の製造は、缶詰が当初より輸出用の商品としての性格を強く持っていたため、政府による殖産興業政策の下で、機械化が進んだが(24)(25)(26)、一般缶の製造は手工業的な面が強く残り、家族労働によってそれが支えられてきた(27)(28)。京都開化堂の資科により、1911(明治44)年のブリキ茶缶の原価表を紹介したい(資料2)。
 洋菓子工業の発展は、金属印刷業にも影響を与えた。ライオン粉製家庭用大缶のブリキ印刷および製缶で順調な伸びを示した小島工場は、1907(明治40)年森永製菓(当時森永商店)との取り引きが始まった。ポケットキャラメルの10粒入り印刷缶に始まり、チョコレートやビスケットの進物缶、菓子用のボ一ル函など、小島工場は森永の専属工場のような観を呈するようになった。西洋菓子が世間に認められ新製品の発表が相次ぎ、金属印刷業者に大きな影響を与えた。1911(明治44)年4月、小島工場は創業10周年を迎えたが、この時点で全従業員数は43名であった(29)(30)
 日露戦争の結果、北洋漁業が新展開をみせるようになり、水産缶詰部門に海外から技術導入が積極的に進められたことも付け加えておきたい。1907(明治40)年、大日本水産(株)がノルウェーからイワシ缶詰用の角缶製缶機一式を購入した。翌1908(明治41)年には、水産講習所が真空巻締機を、京都水産講習所がアメリカ ・アストリアン社製の角缶巻締機を購入した(31)



(注)
(1) 井上光貞ほか: 「日本史(改訂版) 」 山川出版社 1986

(2)上掲

(3)東日本一般缶工業協同組合人材育成計画事業アンケート(1992〔平成4〕年8月実施)による。

(4)上掲および聞き取りによる。

(5) 松本猪太郎伝記編纂委員会編: 「松本猪太郎伝」金方堂松本工業株式会社 1974
雇い人の雇い人れは、ほとんど主人と同郷の若者が採用されるか、引退した番頭などの子弟が優先的に採用された。実力主義がとられたが、丁稚から手代になれるのは、全体の10%にも満たなかったといわれる。

(6)一般缶連合会ニュ-ス NO.50 1991

(7)東京都労働経済局商工部機械金属課編:「東京都地場産業実態調査報告書(一般缶製造業) 」東京都労働経済局商工部機械金属課 1986 
(東京都の地場産業の一つである一般缶製造業について、その実態と問題点を明らかにし今後業界の進むべき方向とその振興対策を確立するための資料とすることを目的に、生産立地環境調査および経営実態調査〔アンケ一ト調査発送数76、有効回答数70、回収率92.l%〕が財団法人国民経済研究協会に委託しておこなわれた。)

(8)ダイヤモンド社編:『小島プレス工業 ポケット社史 」 ダイヤモンド社 1969
1876(明治9)年大日本印刷の前身秀英舎が佐久間貞一によって創立されたが、1882(明治15)年小島長蔵は佐久間貞一に迎えられ正式に秀英舎の社員(鋳造部事務員)として入社した。佐久間貞一の死後、小島長蔵は1900(明治33)年5月ブリキ印刷で独立するため、秀英舎を退職した。
日本和洋酒缶詰新聞社 1974

(9)全日本金属印刷工業協同組合連合会 「金属印刷70年の歩み 」編集委員会編:『金属印刷70年の歩み 」全日本金属印刷工業協同組合連合会 1974
創業時の小島工場において、久米吉之助を忘れることはできない。久米吉之助は、当時東京数寄屋橋際にあった岡村竹四郎印刷所に在職していたのを、小島長蔵に協力を請われ入社した。彼の金属印刷技術は、後に小島工場に入社した曾雌源に伝えられ、東洋製罐の印刷部門の創設に力となり、同じく吉沢宗喜を経て明光堂へ、石橋俊雄を経て広島方面へ伝えられた。

(10)前掲 2-(7)
日清戦争時には、輸入缶詰に不良缶が生じ、また日本人の嗜好の問題などもあり、国産缶詰の使用が決められた。軍隊が、当時の国産缶詰の最大の需要者となった。

(11)前掲(1)

(12)井上光貞ほか: 「要説日本史(再訂版) 」 山川出版社 1982

(13)前掲2-(7)

(14) 前掲(5)

(15) 前掲(5)

(16) 前掲(3)および聞き取りによる。

(17) 前掲(1)

(18) 前掲(3)および聞き取りによる。

(19) 前掲2-(7)

(20) 前掲2-(7)
森永太一郎は、1899(明治32)年8月15日、東京赤坂溜池に森永製菓の前身森永西洋菓子製造所を設立した。森永西洋菓子製造所は、1910(明治43)年2月23日(株)森永商店(資本金30万円)に改組し、個人企業から脱皮した。当時の従業員数は165人、洋菓子工業最大の規模であった。同年12月には、初めて30馬力の電動機を採用し、アメリカから技師を招いて機械生産の習熟に努力した。森永製菓(株)に改称したのは、1912(大正元)年11月のことである。

(21) 水戸部源四郎伝編纂委員会編: 「水戸部源四郎伝」水戸部製缶株式会社 1976

(22) 前掲(3)

(23) 前掲(7)

(24) 前掲1-(2)

(25) 前掲2-(7)

(26) 前掲2-(8)

(27) 前掲2-(1)

(28) 前掲(7)

(29) 前掲(8)

(30) 前掲(9)
明治末期の主な金属印刷業者には、小島工場(東京芝区神明町)、清洲商店(東京月島)、明光堂(東京本所区亀沢町)、東京ブリキ印刷製缶(株)(東京下谷区東黒門町)、鈴木工場(東京本所区外手町)、脇本賦力印刷所(大阪市東区)などがあった。

(31) 前掲1-(2)