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全日本一般缶工業団体連合会

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10.高度経済成長と企業の近代化

1950年代中頃から、積極的な財政・金融政策により設備投資がおこなわれ、大型景気が続いた。
国民総生産(GNP)が年々急増し、1968(昭和43)年には日本はアメリカに次いで資本主義国第2位の経済大国となり、国民生活は大きく変わった。一般缶製造業も、この高度成長期に発展を遂げ、企業の近代化が進んだ(1)

金方堂松本工業(株)は、1955(昭和30)年7月埼玉県川口市本町に川口工場を新設し、大幅に自動機械を導入して本格的なライン化を図った。翌年5月、川口工場がJIS指定工場の認可を受けると、積水化学等と提携してプラスチック製品や紙製品の製造・販売に着手するなど、多様化する需要に対応していった。また、この年の7月には、防湿容器(海苔缶用中蓋付・開封装置付丸缶)の開発に成功した。これは、缶体の上部に極めて薄いブリキ(0.1ミリ)を密着させ、さらに中蓋の内面にこれを切るための爪(刃物状になったもの)を取り付け、開缶しやすくしたものである。
1958(昭和33)年から1961(昭和36)年にかけては、松本一郎(1956〔昭和31〕年1月社長に就任、松本猪太郎は会長に退いた)が欧米の製缶メーカー、製缶機械メーカー、製缶金型メーカー、プラスチックメーカーなどを観察した。1962(昭和37)年3月には資本金を1,350万円に増資、翌年9月には金方堂協力工場協同組合を設立、本社ビルも竣工した。
1963(昭和38)年10月には資本金を2,700万円に増資、この年の年商は10億円を越えた。1960年代も後半にはいると、1965(昭和40)年6月金方堂グループ系列企業として、金方堂印刷工業(有)を設立した。1966(昭和41)年3月には資本金を3,600万円に増資、この年の売上高は13億円に達した。そして、1967(昭和42)年3月(株)金方堂蓮田工場(現第一製缶(株))を設立した。
さらに、1969(昭和44)年2月には関西進出の拠点として大阪府高槻市に大阪営業所を開設、同年4月埼玉県川口市に安行集配センターを設置、同年8月埼玉県草加市に(株)金方堂草加工場を設立した(2)(3)

水戸部製缶(株)は、1955(昭和30)年11月日本金属印刷所と印刷専属発注の契約を締結し、印刷缶の製造に乗り出した。そして、翌年資本金を500万円に倍額増資した。1957(昭和32)年には、神田工場が狭隘となったため、東京都墨田区に向島工場を新設した。1962(昭和37)年1月の資本金は1,000万円になったが、さらに11月に1,500万円に増資した。同年には、静岡県三島市中字五反田に新工場を設置し、二日町の工場を移転、サニタリー缶の製造設備を拡充した。翌年の資本金は2,000万円になった。また、1966(昭和41)年船橋市習志野町に船橋工場を新設し、向島工場ならびに鶴見工場の製造部門を吸収移転した(4)

小島プレス工業(株)は、1959(昭和34)年アルミ・チューブの製管材料であるアルミ・スラグの自社製造を中止し、これを外注することによって採算の効率化を図った。1960(昭和35)年現在の保有機械台数は、527台(1950〔昭和25〕年には359台であった)を数えた。1961(昭和36)年には、チューブ課に高性能な自動チューブ製造機を設置したのをはじめ、翌1962(昭和37)年には旧第1分室跡にブリキ印刷課第1工場を新設し、2色刷の最新型自動ブリキ印刷ラインと自動スポットコーターラインを設備した。さらに、1964(昭和39)年チューブ製管課に高性能自動製管機を1台増設し、生産力の増強を図った。 1965(昭和40)年1月には、近江八幡工場を類焼によって失ったが、同年6月新しく近江八幡市中村町に八幡工場を建設した。1968(昭和43)年現在、年間総売上高6億651万円を計上、売上実績の製品別比率は紙印刷関係1パーセント、ブリキ印刷関係87パーセント、印刷押し出しチューブ12パーセントであった。そして、1969(昭和44)年現在の保有機械台数は737台に達した(5)

行幸堂古茂田製罐(株)は、1957(昭和32)年9月現社長古茂田利行が従来の事業の一大刷新を図って、新しく古茂田製罐(株)となった。1963(昭和38)年1月に、工場を埼玉県草加市に移し、機械設備の近代化を図った(6)

(株)高橋製作所は、1961(昭和36)年キャニスターとして製品をアメリカに輸出、通産大臣より輸出貢献企業の表彰を受けた。欧米、オセアニア、アフリカに販路を広げ、最盛時には従業員が100人もいたが、1965(昭和40)年には円レートの関係と台湾製品の参入などで採算がとれなくなり、輸出が困難になった(7)

須貝金属工業所は、1957(昭和32)年3月葛飾区立石でプレス加工業として創業した。1967(昭和42)年3月には、個人経営から(有)須貝金属工業所に組織変更したく同一場所にて)。しかし、作業場が狭く住居と混在していたので、1969(昭和44)年12月埼玉県吉川町に工場を全面移転した(8)

弥生工業(株)は、1958(昭和33)年4月川崎工場を建設、1960(昭和35)年3月目黒工場を川崎工場に統括移転し、18リットル缶、食缶、4リットル缶、その他一般缶を製造した。
1966(昭和41)年7月には秋田工場を建設し、18リットル缶、4リットル缶の製造をおこなった。また、1969(昭和44)年6月大勝産業(株)と合併し、野田工場に4リットル角缶全自動ラインを設置して、4リットル缶やその他一般缶の製造をおこなった(9)

澤井製缶工業所(1963〔昭和38〕年株式会社に組織変更)は、荒川区の本社・工場のある通りが商店街に位置し買物客の混雑などで車輌通行禁止になったため、その代替地を求めていたところ野田市の企業誘致を知り、1962(昭和37)年11月工場を移転した。最初分工場であったが、1967(昭和42)年全面的に工場を移転した。営業部門と生産部門が分割されたため、情報の伝達等の不正確さや遅れが生じたが、そのような問題も移転後少しずつ解消された(10)

久保田製缶所は、1957(昭和32)年4月株式組織に変更され、(株)久保田製缶になった。1963(昭和38)年10月には、入谷工場が操業し機械缶の製造をおこなった。また、1966(昭和41)年9月には、江戸川倉庫を設置した(11)

東邦金属工業(株)は、1956(昭和31)年5月生産規模拡大のため江戸川区に土地を取得、翌年5月本社・工場を移転した。1961(昭和36)年10月乾電池外装缶(メタルジャケット)の生産を開始、1964(昭和39)年10月にも江戸川区に土地を取得、1966(昭和41)年5月ガスカートリッジ(アウトドア用のキャンピングガスの充填・製造)の生産を開始した。この年の12月には、埼玉県三郷町に土地を取得、埼玉工場を創設して乾電池事業を拡大した(12)(13)

(有)広浜製作所は、1959(昭和34)年6月賃借中の本社・工場の土地・建物を買収、1965(昭和40)年4月株式組織の広浜製缶(株)(資本金500万円)となった。1966(昭和41)年6月、本社・工場の建物改築工事に着工、翌年3月完成した(14)

江戸川製缶(株)は、1955(昭和30)年18リットル缶の製造を開始、1959(昭和34)年大阪市に一般缶の工場を設立、また1962(昭和37)年18リットル缶の製造工場として葛飾区に葛飾製缶(株)を設立した(15)

杉浦容器製作所(現在の(株)東都製缶〔葛飾区四ッ木〕)は、1960(昭和35)年3月に創業、化粧缶の製造を始めた。そして、1968(昭和43)年株式組織(資本金200万円)となった(16)

南製缶所(現在の(株)ミナミ〔埼玉県草加市〕)は、1963(昭和38)年1月に創業、1967(昭和42)年4月に会社を設立した(17)

現在の幸信製罐(株)(千葉県八日市場市)は、1966(昭和41)年墨田区大平町で創業(個人経営)、1968(昭和43)年6月千葉県八日市場市に移転した(18)

大日製罐(株)は、1955(昭和30)年12自営業活動を拡張し、中央区日本橋に本社営業所を設置した。そして、1961(昭和36)年10月埼玉県蕨市に蕨工場を設置し、プラスチック客器の製造販売に進出した。翌年1月には、兵庫県尼崎市に大阪工場を設置し、ブリキ容器の製造販売を開始した。
1965(昭和40)年3月には埼玉県浦和市に浦和工場を設置、蕨工場を吸収してプラスチック成型製造部門を確立した。また、1967(昭和42)年10月には大日本インキ化学工業(株)より梱包用プラスチックバンドの製造技術を導入し、浦和工場にて製造を開始した。

その他、この時期には、1959(昭和34)年4月現在の赤羽製缶(株)(北区志茂)が、1964(昭和39)年11月現在の(株)須郷製罐所(墨田区東向島)が(同年同月会社設立)、1965(昭和40)年3月現在の埼玉製缶(株)(埼玉県八潮市)が(翌年3月会社設立)それぞれ創業した。
また、生産規模の拡大や騒音対策などのため、積極的に工場移転などがおこなわれた。1959(昭和34)年2月には、杉浦製罐(株)が江戸川区に移転した。1960(昭和35)年には、中川製缶(株)が小台工場(足立区)を建設した。1962(昭和37)年9月には、広浜金属工業(株)が大阪府高槻市に大阪工場を開設した。1963(昭和38>年には、最上製鐘(株)(創業1954〔昭和29〕年、会社設立1959〔昭和34〕年、墨田区業平〉が工場を埼玉県草加市に移転した。1964(昭和39)年2月には、辻製缶(株)が埼玉県川口市に本社・工場を移転、同年7月にはツジ製缶(有)(1965〔昭和40〕年7月寿元産業(株)に組織変更)が埼玉県戸田市に戸田工場を建設した。また、この年には、加藤製缶(株)(創業1921〔大正10〕年、会社設立1954〔昭和29〕年、埼玉県八潮市)が墨田区東駒形から埼玉県八潮市に本社・工場を移転した。1966(昭和41)年4月には、杉浦製罐(株)が茨城県守谷町に守谷工場を建設した。
この年には、松本製缶(株)も埼玉県八潮市に工場を建設した。1967(昭和42)年7月には、進和製鑵(株)が神奈川県厚木市の内陸工業団地に工場を建設した。この年には、サクラ罐工業(株)が静岡県小笠町に工場を移転した。1968(昭和43)年10月には、広浜金属工業(株)が千葉県船橋市に千葉工場を建設した(19)(20)

大阪では、藤井容器工業(株)が1957(昭和32)年4月一般缶の製造を開始、1961(昭和36)年12自愛知県三好町に名古屋工場を開設、1962(昭和37)年4月大阪市城東区に本社および大阪工場を移転、1967(昭和42)年3月神奈川県平塚市に平塚工場を開設した(21)
生野金属(株)(1957〔昭和32〕年現在の商号に変更)は、一般缶、金属玩具の製造ならびにブリキ板の販売をおこなっていたが、1961(昭和36)年布施市柏田に布施工場を建設、5ガロン缶の製造を開始した〔1964(昭和39)年4月には、営業事務所ならびに一般缶工場を新築移転〕(22)

アジア金属工業(株)は、昭和30年代にアルミインパクト製法による継ぎ目の無いワンピース缶を製品化したが、事業拡大を図るため1963(昭和38)年印刷設備を奈良工場に増設した(23)
大阪製缶(株)は、1963(昭和38)年東大阪市に移転した(24)

松本金属工業(株)(大阪市北区)は、1965(昭和40)年2月創業社長であった松本俊男がブリキ印刷および製缶関連各機械の輸入専門商社として設立した。設立当初より、アメリカのナショナル・スタンダード社のオープン部門であるワグナー社と印刷オーブンに関するライセンス契約をおこない、各種オーブンの設計、製作販売をおこなった。
1968(昭和43)年、イギリスのクラブツリー・ヴィカース社と輸入総代理店契約を結び、ブリキ印刷業界への参入を開始した。1969(昭和44)年には、シーム溶接機の先駆者であるスイスのスードロニック社と輸入総代理店契約を結び、半自動機械を輸入した(25)

大和製罐(株)は、1956(昭和31)年に清水工場を建設、また同年ACC社と技術提携をし、最新の製缶技術を導入した。1965(昭和40)年10月には、九州製罐(株)(1950〔昭和25〕年3月設立、資本金500万円、八幡製鉄(株)の系列会社)と合併し、基盤が強固なものとなった。

名古屋では、1958(昭和33)年4月(有)鬼頭製作所が個人経営から有限会社を設立した。当初の製造品目は、粉わさび缶(主に家庭用)、インキ缶、薬品缶などであった。粉わさび缶とインキ缶で総売り上げの80パーセント近くを占めた(26)
また、側島製缶(株)は、この時期に薬品缶、菓子缶、海苔缶のほか、自動車用関連缶を半自動製缶機で製造した(27)

金属印刷業も近代化の機運が高まり、機械の高能率化と省力化が進んだ。1961(昭和36)年大成ブリキ印刷(株)がアメリカよりアール・ホー印刷機(34×36インチ)を輸入、2年後神光錻力印刷工場もこれを設置した。また同じ頃、千代田金属印刷(株)、東邦ブリキ印刷(株)、大成ブリキ印刷(株)が、アール・ホーに範をとった新日本工機の輪転機を設置した。
1965(昭和40)年には淀川精機工業が輪転機を製作し、二葉錻力印刷へ納入、翌年金方堂印刷工業(有)へ納入した。アール・ホー社の印刷機と同型のクラブトリーの印刷機は、松本金属の取り扱いで1967(昭和42)年に日本メタルプリント(株)に、1968(昭和43)年関西金属、三船工業に、1969(昭和44)年東一ブリキ印刷(株)にはいった(28)

わが国の電気メッキブリキの生産は、1955(昭和30)年5月八幡製鉄(株)と東洋鋼鈑(株)が同時に開始した。その後、富士製鉄(株)が1957(昭和32)年、日本鋼管(株)が1962(昭和37)年、川崎製鉄(株)が1967(昭和42)年と、大手高炉メーカーが相次いで進出した(29)

東洋製罐(株)は、1956(昭和31)年6月福岡パッキング(株)、同年9月東洋容器(株)、同年10月大東製罐(株)、1957(昭和32)年6月新東洋硝子(株)、同年7月四国製罐(株)、1958(昭和33)年7月幸商事(株)、1959(昭和34)年1月日本鋼鈑(株)、同年8月東洋製版(株)、1961(昭和36)年2月フッド・マシナリー(ジャパン)(株)、同年4月東罐運輸(株)、1962(昭和37)年2月東罐運送(株)などの関係会社を設立し、1964(昭和39)年4月東罐グループ26社の年間総売上高は約900億円になった。
1958(昭和33)年にはビール缶の製造を開始、1962(昭和37)年10月には東京・大阪両工場でプラスチック容器の製造を開始した。
そして、コンチネンタル・オブ・パナマ社(1961〔昭和36〕年4月)、メタルクロージャー社(1963〔昭和38〕年8月)、ユナイテッド・シュー・マシナリー社およびアルミニューム・カンパニー・オブ・アメリカ社(1964〔昭和39〕年9月)、ル・ブシアジー・メカニイク社(1965〔昭和40〕年5月)などと技術提携を進めた。その間、資本金を1957(昭和32)年7月8億円、1958(昭和33)年4月16億円、1960(昭和35)年6月24億円、1961(昭和36)年6月50億円へと増資した(30)

(一般缶製造業の歴史は、高度経済成長期、特に1970〔昭和45〕年までとした。1970年代にはいると、内外情勢の変化で長く続いた経済の高度成長はいきづまりを示すようになった。
1970〔昭和45〕年5月28日には、ブリキ缶製造業が中小企業近代化促進法の業種指定を受け、通商産業省重工業局製鉄課が全国ブリキ製缶工業会の協力のもとにブリキ缶製造業の実態調査をおこない、報告書を出している。
また、東京都労働経済局商工部が、1985〔昭和60〕年度に東京都の地場産業の一つである一般缶製造業について実態調査〔生産立地環境および経営実態〕をおこない報告書を出している。
1970年以降は、一般缶製造業についての各種の調査がおこなわれ、その実態が明らかにされているため、一般缶製造業の歴史の記述から省いた(31)(32)



(注)
(1)前掲 (3)-1

(2)前掲 (3)-5

(3)前掲 (3)-3

(4)前掲 (3)-21

(5)前掲 (3)-8

(6)前掲 (3)-3

(7)前掲 (3)-3

(8)前掲 (3)-3

(9)前掲 (3)-3

(10)前掲 (3)-3

(11)前掲 (3)-3

(12)前掲 (3)-3

(13)一般缶連合会ニュース NO.52 1991

(14) 前掲 (3)-3

(15) 一般缶連合会ニュース NO.38 1987

(16) 前掲 (3)-3

(17)前掲 (3)-3

(18)前掲 (3)-3

(19)前掲 (3)-3

(20)一般缶連合会ニュース No41 1988

(20) 前掲3-(3)および聞き取りによる。

(21) 一般缶連合会ニュース NO.46 1989

(22) 一般缶連合会ニュース NO.33 1986

(23) 一般缶連合会ニュース NO.43 1988

(24) 一般缶連合会ニュース NO.32 1986
1960(昭和35)年、レターケースの生産も開始した。現在の鋼器部門の売り上げは、全体の3分の1である。

(25) 一般缶連合会ニュース NO.48 1990

(26) 一般缶連合会ニュース NO.39 1987

(27) 一般缶連合会ニュース NO.36 1987

(28) 前掲 (3)-9

(29) 前掲 (4)-12

(30) 前掲 (4)-16

(31) 前掲 (2)-1

(32) 前掲 (3)-7